戦国期の歴史

織田信長は、安土城と長浜城、坂本城に加えて琵琶湖西岸の大溝の地に大溝城を造らせ、4つの城のネットワークで琵琶湖を固めようとしました。 信長の命によって造られることになった大溝城は、現在の乙女ヶ池を自然の堀として巧みに利用して、信長の甥の津田(織田)信澄が築城しました。 なお、縄張り(設計)は明智光秀とされています。

本能寺の変の後、信澄は大坂城で攻め殺されましたが、大溝城を拠点として5年間にわたる信澄の活躍を支えたものは、所領であった高島郡の農業生産(経済力)にあったことに注意しなければなりません。
信澄死後の大溝城は、数年毎に城主が変わり、高島郡の一部が秀吉の直轄領になるなど頻繁な交代がありました。 そして、天正15年(1587)には、名門家の京極高次が大溝城主となりますが、やがて、天守は取り壊され、今の甲賀市水口町にあった水口岡山城に移されたとされています。
この様に、織田信澄の大溝城築城以来、約40年の間、高島郡域の支配拠点となった大溝城主の交替は、それが単に領主の交替のみでなく、秀吉の度々の直轄領にみられるように、高島郡域が軍事・交通、または経済上重要な位置を占めていたからではないかと想像されるのです。