高島探訪(一)

大塚久雄

はじめに

高島町は、古くより北陸から大和への交通の要衝として栄えて来た町と伝えられている。

現在、町のあちこちにロマンに満ちた悠久の史跡などを見ることができる。そのような史跡など探訪して歩くことは将来に生きるために必要な事の一つであろう。

勝野

勝野は古く、大溝と称されその名は豊臣秀吉が天正十五年に残した歳入目録に現われるが起因は知れない。元は、打下村、石垣村の地であったらしく、この辺りを勝野ヶ原といったらしい。明治八年に両村が併合され、昭和十二年、町村合併により大字勝野となり今日に至っている。

江若鉄道の開通が昭和二年(一九二七)、国鉄湖西線の開通が昭和四十九年(一九七四)と高島町は勝野を表玄関に機動している町であり、現在、近江高島駅を起点に町内を探訪することが最も望ましいことであろう。

大溝城跡

近江高島駅前を東へまっすぐに約百五十m進むとT字路(旧一六一号線)があって、左へ今津、右は大津へ延びている。T字路を左へクランクして直進すると勝野の港にでる。港は古く木炭、石灰などの積み出し港として栄え、それらを扱う問屋が軒を並べ、はたご(旅館)もあって活気に満ちていたと伝えられる。

大溝城跡は、勝野の港に続く内湖(乙女ヶ池)のほとり(T字路の南東、郡立高島病院の裏、分部神社の裏でもある)にあり、城跡は小高く、石積みの手前に朱塗りの鳥居が、上には稲荷さんが祭られている。天正六年織田信澄によって新庄(新旭町)から移築され、一時、豊臣秀吉が継ぎ、ついで伊勢(三重県)から分部氏が入部して明治維新まで存続されたと伝えている。

城下町勝野

大溝城下の町づくりは、新庄、今市(新旭町)南市(安曇川町)の住民を移動させて始められたと伝えられている。

近江高島駅前を左にとり、約十分の所が山の手と言われる。ここに大溝藩主の菩提寺(円光寺)、大溝藩主歴代の墓があり、円光寺に隣接する瑞雪院には藩主が葬った、幕末の北方領土探険家の近藤重蔵翁の墓所がある。大善寺、妙琳寺、勝安寺、流泉寺、中西某、福井某などは大溝城城下の町作りに伴って新庄、今市(新旭町)南市(安曇川町)若狭(福井県)からの移住によって始められたらしく、勝野には古く、分部氏の就封によって勝野六軒町、長刀町、江戸屋町、伊勢町があって、さらに、江戸時代には蝋燭町、十四軒町、職人町、西町、石垣町、紺屋町、船入町と繁華していたようである。弘治三年(一五五七)草創という徳善寺には、町で最も古いとみられる徳善寺の像(阿弥如来像)があるという。

町には、近世、三井組、島田組をしのぐ財閥(小野組)あったり、五基の曳山、名産の紅葉鮒の鮒寿司、銘酒の萩の露のことなど得意なことを見聞できる。

また、琵琶湖哀歌の舞台となった萩の浜周辺は、昔、「鬼江の浜」とも言われ、天平宝字八年(七六四)恵美押勝の乱があった所。この辺りの湖辺を南から三尾ヶ崎、香取の浦、勝野津、真長の浦と呼ばれていたらしく「万葉集」に「大御船泊ててさもらふ高島の三尾の勝野の潜し思ほゆ」「何処にか舟乗りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出来る船」などと古い地名が残されている。

また、勝野の人々の憩の場として「天頑山」がある。天頑山には、忠魂碑があり、その裏にはイヌヤチスギラン、キンポウゲ、ハッチョウトンボの発生地がある。さらに高島バイパス(一六一号線)と旧一六一号線の交差する地点(和田打川の橋のたもと)に昔の刑場跡があり、「大乗妙典六十六部日本廻国」の石碑が奉納されている。大般若経の碑は疫病者を葬った供養塔として歴史を止どめている。

乙女ヶ池

近江高島駅前、高島病院へ入らず右の小道(湖西線に沿う道、旧西近江路)を辿ると左に大きな池(乙女ヶ池)と、その前に集落が見えてくる。乙女ヶ池の周囲は約一、八五〇皿、面積約一二三、六〇mと言われ、古く洞海、鬼江など言われていたそうである。この池には大きな鯉や鮒、鯰、特にダブガイ(イケチョウガイ)が生息し、淡水真珠の養殖が昭和の始めになされていた。

また、梅雨時期になると周囲の葦原に置かれるタツベ(竹製、円形長縦の漁具)が並び、鮒や鯉が多く獲れる。昭和三十年前後では、打下の人々は個々にタブネ(和船)を所有し、向かい(山の手)の田圃へ稲や馬屋肥など満載にして男女を問わず、この乙女ヶ池に櫓を漕ぎ往来していたと伝えられる。

長法寺

乙女ヶ池に映える長法寺山、通称、長法寺は、山の手の山裾から約二kmといわれ、山頂には古い石積みなどがその名残を止どめている。

長法寺は、高島七ケ寺の第一で北敵山三千坊に数えられ栄えていたが、織田信長のために焼亡したらしいと伝えられている。

長法寺へは、打下からの七曲、鵜川から辿ることができる。

長法寺山からの眺めはすばらしく、その最端を三尾崎と言い、また、明神崎とも言われ、湖に山の迫った交通の要衝と連なり、麓には馬頭観音も祀られている。権田の地名からはゴンザ(昔、家の庭などに苦りを混ぜて打ち固めた砂)が搬出された。また、山中には古い墓所や間涯仏など庶民の信仰の対象となった野仏が見られる。

打下の集落

近江高島駅前T字路(旧一六一号線)を右へ、約三百mも過ぎると日吉神社の御旅所があり、打下の集落に入って行く。長法寺山からの眺めは、有名な天の橋立の様にも見え、浜の中州に立ち並んだ集落では、琵琶湖をオモテウミ(表海)、ウラウニ(裏海、乙女ヶ池)と呼び、表の海の防波堤に積まれた石垣は一見城壁の様にも見られたが、石垣は一六一号線(高島バイパス)の攻め立て工事(昭和五十七〜八年)によって、そのおおかたの姿を消している。しかし、この工築にともなう技術など想像すると様々な先人の生き様をかいま見ることができる。打下は、「打嵐」と記されたときもあったようであるが、地名の由来は、長法山から激しい嵐が吹き下ろすことからとも伝えられている。

また、打下には権田(ごんだ)の地名がある。ここには日吉神社があって、宮座があり、石燈篭に「旧人講」の文字が見られ、山田、富永の二氏をモロト(旧人)筋と称されている。また、打下の丘には「蓮如の腰掛石」がある。その伝承は、最勝寺には「最勝寺文書」、浄照寺も拘わりを持つ村人の願い寺である。

字権田は、ゴンザという砂を搬出するが、一帯の地名でもある。他に、五井ヶ崎(三尾崎、明神崎)と呼ばれてきた所がある。ここには昔、小川があって、滋賀郡 (小松村)との境となっていたようであったが、戦後の町村合併によって、この辺りも鵜川と共に高島町となっている。

現在、青松、白砂の続く湖岸は白鬚水泳場として、また、最近ではウインドサーフィンのメッカとして賑わっているが、昔は、北と南の風が交差し、魚が集まる漁場であったり、浜風に吹き寄せる砂を採って商うような人達があったと伝えられる。

打下の集落では、昭和三十年頃まで、江戸時代から使用された龍骨車、竜骨車と言われる揚水機があって、乙女ヶ池などで多く見られ、この辺りの稲作文化を伝えるうえで貴重である。

四十八体石仏

古く、打下から鵜川へ山の斜面(明神崎)には、天文二十二年(一五五三)に六角義賢が亡き母の追善のために刻んだという一、五mほどの阿弥陀如来坐像が整然と並んでいる。四十八体のうち十三体が坂本の慈眼堂へ運ばれたと伝えられ、近年(昭和六十二年)、何者かが二体を持ち去り、現在、三十三体となり風雨に晒された石仏は、その荒れ方も痛ましく、素朴な顔の表情は私達に何かを語り掛けてくる様に見えてくる。

※ 何処の集落でもそうであるようにサンマイ(埋め墓)は、村外れに位置していることも興味深い。

白鬚神社

一六一号線、明神崎(白鬚浜)を大津方向(南)に回ると視界が広がり、間も無く朱塗りの鳥居が見えてくる。鳥居の手前に汽船の乗り場の棧橋(船着場)であった残り杭があり、遠景に比良の連峰、湖東、湖南の山々が見える。十一月の頃になると「浮島現象」が見られ、三上山、びわこ大橋の景色は夢の世界のようである。古く、西近江路は白鬚神社の社殿と鳥居の間を通り、江若鉄道の廃線(昭和四十四年)までは、一六一号線、江若鉄道は鳥居に接し、湖岸に沿って鵜川へ延びていた。

白鬚神社の祭神は、比良明神、即ち猿田彦神が祭られ、古くから長命、航安、農耕の神として信仰も厚く、その末社も多く、祭りに繰り出す露店も有名である。

「神社の屋根は入母屋造の本殿と拝殿が棟で結ばれた特異なもので、特に檜皮葺は美しく、桃山時代(一六〇三)十才であった豊臣秀頼の命で再建されたという建物に興味が持たれる。

鵜川の集落

比良山地は湖岸に接近し、道(一六一号線)は、湖岸に沿って南に一直線に走っている。鵜川は、その道から個々に約百m入って立ち並ぶといった特異な集落である。古く鵜を飼っていたとの言い伝えの残るところで、その多くは打下村からの分家が多く、分家が更に分家することによって形成されている。

鵜川から鹿ヶ瀬村へ越える道は、鹿ヶ瀬村で「鵜川越」といわれている。鹿ヶ瀬や黒谷の村からは、この道が近道となるために白鬚詣りや小松村へ柿売りに行ったとの話を聞かされる。

現在、この道を元に林道工事が進められ、昭和六十三年、鵜川〜鹿ヶ瀬間が開通し多目的な利用が期待されている。

昭和四十九年に開通した湖西線は三尾山を貫通し、鵜川の集落の上をつっぱしっているが、その眺めは最高である。湖岸から突き出るこの地方独特のエリ漁、オイサデ漁の風景は湖国唯一であり、南(大津方面)からは、高島町にふさわしい玄関口の役目を果たしている。

出典:「高島の民俗」 平成2年1月1日号