白鬚祭り

山本庄助

高島町の伝統行事の内、白鬚祭り、大溝祭り、嶽山祭りは三大祭りと言われて来た。

白鬚祭りは湖に鳥居を浮かべた、瀬戸内海の厳島神社に比較される琵琶湖のシンボルであり、我が湖西高島の大きな誇りだ。祭神は日本水稲の祖と言われる猿田彦とその妻「あめのうずめ」である。現在の白鬚神社は、昔のまま山と湖にはさまれた狭い境内にきゅうくつなたたづまいで、湖西唯一と言われているが、他の神社のような豊かな境内を有していないが大琵琶湖を取り入れているので、これは日本一広い境内と言っても過言ではなかろう。

私達の子供の頃(大正初期)は、九月五日のお祭り前後三日だけの大祭で、後は正月やお盆に地元からのお詣りだけで、ひっそりとした静かなお宮さんのたたずまいであった事は、私達子供達にもあまり白鬚さんの境内で遊んだ記憶がない。

九月五日の一年に一度の例祭には、高島郡は言うに及ばず県下や京阪神からも参詣の人が絶えなかった。何分二百十日二十日の百姓の厄われる天候の悪い時期で、この前後は台風のシーズンで三年に一度はこの天候のため折角の祭礼がお流れになる事も多かったが、熱心な信者は雨と風を押して神前にぬかずいて豊作と長寿を祈ったものだ。今のように乗り物が玄関に着くという条件と違って、湖添いの細い道を風と雨とでずぶぬれになりながらお詣りしたものだ。

ある年のこと、白鬚さんに露店の店を出すため梨を満載した湖東の舟が途中で転覆して、積荷の梨が湖岸に押し寄せ思わぬ梨狩りが出来た事も思い出である。もちろん商人も船頭も船も梨も犠牲になって、長寿の祈りが裏腹に出た事も悲しい物語である。

白鬚祭りには「成子詣り」の風習が伝わっている。当日は満一歳に達した子供を神前で祈念してもらう儀式だ。湖から船でお詣りが出来たが、陸上は殆んど徒歩だった。朽木や湖北からの参詣者は、朝暗いうちから弁当を背にボチボチ歩いてお詣りをして、露店を廻り神殿の裏山で持参の酒盛りをして一杯機嫌で鼻歌を歌いながら帰って行った姿が今も眼にちらつく。成子詣りはその当時唯一の交通機関である人力車が多かった。車に乗るのは嫁と老婆が多かった。一歳の子供は無心に人力車にゆられて母親や祖母のひざに抱かれていた。神社に着くと、徒歩で来た一家や親類と参道脇の灰治楼でささやかな宴会を開いて酒杯し、一杯機嫌の一行が又人力車の成子を囲んで伊勢音頭で神前を通り抜け山添いの四十八体の旧街道を人力車の後押しをしながら帰って行った。お土産に買った風車が無心にクルクル回っていたのは秋祭りの風物詩であった。

白鬚祭りが済むともう秋。村の人達は稲の実りを待って田圃に総出、白鬚神社は又常の静かなたたずまいに沈んでゆく。

近頃は交通機関も発達し国道一六一号線も完備して、年中お詣りの人が絶えないのは神社としては恵まれた時代を迎えた。豊作、長寿に併せて交通安全祈願として神社は昔のままだが繁盛していると言える。境内には明神山から湧出する水も豊富である。また、紫式部の絵碑も役場の千世子さんのモチーフで建立され、境内の一隅にある。芭蕉の句碑も風化されつつ湖の鳥居に対示している。

出典:「高島の民俗」 平成元年9月1日号