大溝港今昔

山本庄助

(一)

明治維新までの勝野津の港は、勝野の港と若堀を灰太裏までの運河と真長浦(荻の浜)をふくめた広い港だった湖上を運行する帆船が勝野津、若堀、真長浦におびただしく出入りして港は繁栄し、当時は小野組、炭屋(本庄家)、灰太(桜井家)などの大問屋が高島町(大溝)の経済を支配していた。勝野津は大津と塩津のほぼ中間の人間で言えばへそにあたり湖西唯一の要港であった事は地形上当然であろう。

明治になって帆船が蒸気船に追放されて、港の外湖に移され大溝港が新設されたのも大型の汽船を運行する必要上自然の成りゆきの発展であり、勝野津、若堀、灰太裏、真長浦(御揚場)の港は次第に帆船の運行もなくなり現在のように勝野津もその大半が埋立てられ、若堀も埋まり耕作田と変わり、真長浦(お揚場)も荻の浜水泳場となって、明治初年の勝野津の港町は大きく変ってしまった。この港を支配していた本庄家(炭屋)のあとは農協や銀行の現代建物となり、桜井家は灰太堀に昔のままの倉庫と問屋倉を残しているが本家は土地を離れ、白鬚神社前の灰治旅館がその伝統をとどめるのみ。本町の小野組の小野家も消えて、大溝御三家と言われた支配者は昔話の歴史の中に埋まってしまった。栄枯盛衰は時の流れとは言え、分部二万石の城下町勝野津の町人の中心地の変動には今さらの如く感懐深いものがあり、昔を知るものにとってはひとり涙がこぼれる。

(二)

明治・大正の初期までの大溝港の繁栄は、貨客とも独占して本当ににぎやかであった。大溝港には毎日定期船が上り下りとも十回程就航していた。京都や大津へ丁稚や女中奉行に行くも、修学旅行に行く生徒もこの港はなつかしい思い出の港であっただろう。桟橋にはいつも物が山積され、切符売り場の待合室には人がいつもあふれていた。浜の石垣の上には藤の棚があって、その影には人待ちの人力車が五、六台客待ちをしていた。私が兵隊に行く時、この藤棚の下が見送りの人達への演台になっていた。昭和二年一月八日、私はこの藤棚の下で入営者を代表してあいさつの演説をした事を覚えている。もう六十年の昔になる。汽船の名前は忘れたが、海津から今津、深溝の入営者を集め大溝港を最後に長浜に直行する入営者専用の船だったからあまり大きな汽船ではなかった。万歳の声に送られて、上甲板から手を振り帽子を振って中にはマストによじのぼる元気な者もいた。まるで出征兵士のように…。

大溝港から汽船での入営者は私達が最後でなかったが、昭和三年兵役終えて徐隊した時には江若鉄道がやっと大溝駅まで延びて、新駅に出迎えが集まっていて、旗を振ってくれたのも夢のようななつかしい思い出だ。江若鉄道の今津までの開通は、それから三年後の昭和五年だったと思われる。江若の開通によって、大溝港は大きく後退した。貨物も乗客も殆んどを取られたが日に六回程に減った。汽船の運行は続いていたが昔のような港のにぎわいはなくなり、勝野津も僅かに魚船やボートが出入りするうられた魚港に替り、港としての生命を絶たれて今の姿に変ってしまった。静かな住宅街になった勝野津はバイパスの建設に依って完全に姿を消してしまった。大溝港はもう昔のような港の姿に還る事はなかろうが、お揚場や灰太堀や船頭町やらんかん橋の名とともに港町・大溝港の名は末代に語りつがれるであろう。

出典:「高島の民俗」 昭和61年9月1日号