鵜川四十八体のいわれ

公民館 山本庄助

六角義賢が母呉服の追慕と考心から、佛の四十八願を願う雄大な祈願で、ここ鵜川の地先十禅寺山の岬に造営せられたのは、天文二十二年(一五五三)のことである。東に陽を受けたゆるい斜面に、八列に六体ずつ行儀よく並んだ石佛は誠に尊大なもので、参拝するのも佛思にひざまづいて涙を流したことでしょう。

六角家は、義賢が織田信長に根こそぎ攻めほろぼされて断絶してしまったのは、四十八体が完成してからあまり日がたっていません。願主を失くした石佛たちは、湖西のしかも僻地の山中とて、まいる人もなく、また施餓鬼なども十分に出来ず、する人もなく、ただ昔からここにあった撮取庵(今は廃寺)がお守りだけをしていたのですが、この院も住職が住みつかなくなってからは、草深い中に埋もれていた。そのうち大津市坂本の慈眼大師の廟の傍に移されたのは十三体、六角家が帰依していた廟の近くに全部を移す予定だったらしいが、この巨大な石佛を坂本に移動願うと一口に言っても、その当時の運搬力ではなかなかの大事業で、坂本の人達も石佛の心を知りかねて手を貸してはくれず、鵜川の住民たちも佛罰が恐ろしいと賛成してくれず、坂本に移動と決めたもののしばらくはどうする事もできなかった。比叡山の荒法師たちさえ見て見ぬふりだったそうです。

その当時、山嶽宗教の修験者で嶽山のふもとの音羽村で角力や空手や格闘技など、日本の古武道を教えていた荒岩甚左ェ門という豪傑がいた。気性が荒ら荒らしくて岩のような体型の持ち主で、たくさんの門弟を教導していました。

荒岩というのは古武士のような修験者を尊敬して呼んだ名前でしょう。慈眼大師の門弟たちの願いで、荒岩甚左ェ門が門弟を集め四十八体を坂本に運ぶことになった。しかし、この仕事はなかなかの難儀なことでした。四十八体の石佛は、ここで造られたのではありません。長命寺や沖ノ島で造って、材木筏でしばって、帆船で湖上を運んで来て、五位の浜(今の白鬚浜)に掲げ修羅で坂を引きあげて祝ったのです。

荒岩は、この逆に修羅にのせて坂道を浜まで出し、筏に積んで三体ずつを帆船で坂本まで移動させたのだそうです。石佛の中にはなかなか動こうとしないのもありました。「挺子でも」「首が落ちても」動かぬと頑張る石佛もあった。二列の十二体は無念にも坂本に運ばれ、現在、慈眼大師の廟のおそばにあるが、十三体目の石佛は湖上まで積出したのですが、坂本にはついに到着しませんでした。と同時に石佛運びの統領の荒岩甚左ェ門の姿もそのまま現れることがありませんでした。そして何かとよからぬ噂が広がって、残った三十五体に手をつける者がなくなりました。十三体移動したあとには銀杏の木を植えましたが、今では一廻りもある大樹になって三十五体の石佛の笠になっています。今年も大雪で一本の張り出した枝が折れましたが、一本の枝で三十五体をすっぽり埋めてしまいました。荒岩甚左ェ門ともども消えた石佛の一体は白鬚浜の湖底で今も修業していられるのではないでしょうか。

荒岩のお墓は石佛の前に門弟達の手で造られましたが、三十五体の石佛に縛りつけられているということです。最近この石佛を盗みに来た罰当りがいました。村人は盗難を恐れて金鋼で囲いました。末世とでもいうのでしょう。石佛の前に座っておられた可愛いい地蔵さんは、今は一体も見当りません。地蔵の盗人は唯か石佛は冥想のまま語らず、石佛の脇佛のようにあった地蔵さんも、今はどこにどうしておられるかは知る由もありません。

出典:「高島の民俗」 昭和57年11月1日号