続 大溝城御本丸物語

公民館 山本庄助

大溝城を最初に築城したのは、近江の北半分の領主京極高亮を攻略し、湖西の高島まで領地を拡げた浅井亮政である。

高島の勝野の港は大津から海路十里(四〇キロメートル)、塩津から十一里(四三キロメートル)。湖のヘソにあたる位置で、湖西縦断に船で二日かかるとすると、どうしても舟を泊めて息次ぎせねばならない重要な港であり、浅井家としては一番南端の、喉にあたる要地であった。ここに挙兵の城を作る事は、戦略上当然の処置であった。

まず第一に、御本丸の構築に手を染めた。勝野の港の入口で、内湖の洞海(現在の乙女ヶ池)に四方堀をめぐらす浮城で、巨大な礎石を運ぶ工事から始め、奉行には磯野員昌が専従した。

しかし、織田信長が浅井亮政を滅したので、大溝城は築城半ばにして挫折してしまった。

ついで織田信澄が領主として高島に乗込み、丹羽長秀を奉行として、大溝城の本丸と二の丸の屋形を完成した。周囲を沼でかこい、二の丸の屋形から舟で通う浮城には、二層の楼閣がそびえ、本丸としての威容を備えていた。しかし方位上の手違いがあったのか、御本丸そのものに欠陥があったのか、大溝城本丸の築城を手がけた浅井亮政の滅亡に引き続き、築城を完成した織田信澄も奉行の丹羽長秀の手によって横死するという不吉が続いた。その後大溝城主として、生駒親正、新庄真頼、上杉景勝、丹羽長重(長秀長子)、加藤義泰等が赴任したが、そのほとんどは御本丸に入城していない。何かの凶事があり、天下の豪傑も避けたのかもしれない。

京極高次が天正十八年(一五九〇年)に大溝城に赴任してからのことは、すでに前号で述べたが、豊臣秀吉の治世はよく治まって、天下はひとまず安泰し、高次の大溝城も平穏だった。だが、高次の侍女に次々と手を出す悪い女ぐせは治らず、内室はつ(浄光院)の嫉妬心は狂気に近く高揚していた。浄光院の荒れ狂う日は、高次も手のほどこしようもなく、舟で御本丸の楼閣に引き込もり難を避けたという。二万石の名門の領主らしくない話も残っている。

ある夜楼閣に一人寝の高次が、夜中に身の毛もよ立つ悪夢に襲われ、ふと眼をさますと、畳の上に何かが動めく。細めた灯を明るくすると、一匹の白い蛇が鎌首をあげて今にも飛びかからんとしていた。その姿に飛び起き、枕元の佩刀を抜くや鋭く斬り下すと、何の手応えもなく、見れば白い腰紐が断ち切れていた。夜が明けてなおよく見ると、一本の白い紐で、浄光院の召していた腰紐に酷似していた。

又、雨模様の暗い夜には、御本丸を取り囲む堀や沼に、不知火のような火の玉が燃えるのを港の人達は見ている。沼地のことだから、あるいは何らかの埋蔵物が何かの条件で火に見えたのかも解らぬが、人々は浄光院のやきもちが燃えているのだとささやき合った。

高次の楼閣への逃避も次第になくなって、近習だけが宿直する楼閣で、またまた異変が起った。夜中になると楼閣の二層の二階で、「ドーン」という大きな物音が起ったのだ。おっ取り刀で駆け付けた近習が灯をかざして見たが、何の変りもなく、鼠がかさこそ走る音が聞えて来るだけであった。

こんな事が幾晩も続き、近習も仮病を使って休み勝ちになった。たまりかねた上役が楼閣に夜詰したところ、その夜、草木も眠る丑満刻と思う頃、楼閣の二階で「ドーン」と響く音。さっそく二階に駆け上ったが何の変化もなく、鼠が二、三匹押入れに逃げ込んでシンと静まり返り、恐しいほどの静けさであった。

こんな夜が毎日続き、原因不明のまま、楼閣には近寄らなくなっていった。後日、異変を知らされて、原因を調べていたお抱えの大工が天井裏をめくって入り調べたところ、異常に繁殖した野鼠が夜中になると天井裏に集結して、鼠のピラミッドを作り、頂上から崩れ落ちる音が妖怪じみた音を立てていたという他愛ない事であったのだが。

御本丸は石垣と樹の巨根と湿地の三条件が揃ったためか、黒蛇と蝮が異常繁殖したのも無理からぬ事であった。石一つ動かしても、樹一本切っても崇るとして恐れられた御本丸は、導が噂を呼んで無住に近く、荒れ果てた。

その頃、豊臣秀吉の死、前田利家、加藤清正の横死などで天下は徳川に傾いていた。片桐且元、石田三成、木村重成等の力では、豊臣秀頼を支える手段はなかった。平和であった大溝城もこの渦の中に巻き込まれていた。その第一は秀吉の側室に納まっていた高次の姉の龍子、松丸君である。淀君を初め、他の側室とその寵愛を争っていたが、秀頼の生母である淀君には抗すべくもなかった。龍子は秀吉の納棺が済むと髪をおろして、弟高次の大溝城へ帰って来た。秀吉の菩提を葬い、京都の秀吉の墓所にお詣りすることもたびたびで、ひっそりと暮していた。秀吉の側室淀君の妹である浄光院の元に帰って来たのだから、その心情は複雑なものであったろう。

勝野の出先、航海安全のほこらを祀る真盛上人ゆかりのお寺のほとりに庵を作り、日々秀吉への供養怠らず、先祖沙々木家の祈願に建立された、鵜川の四十八体を祀る摂取庵に参詣したことなども伝承されている。

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦は、天下の大名の起伏に大きく影響した。京極高次は手勢五百を率いて徳川方の陣地で奮戦している。私達の先祖が高次の兵となって関ヶ原で戦ったのだと教えてもらったことがある。この戦功により、京極高次は若狭も併せて五万石で小浜の城に移った。浄光院は共に移り住んだが、松丸君のことは何も伝承されておらず、残念である。

勝野の出先(今の日吉神社お旅所)にあった真盛上人ゆかりの寺は、その後たびたびの水禍で山の手に移った。大善寺がそれではないかと考えられる。松丸君の庵も同じ水害に悩まされたのだから、その時に水没したのかもわからぬ。

今、国道一六一号線になっている「らんかん橋」を旧大溝港へ折れ曲った港に面した角に、京極姓を名乗る唯一の屋敷があった。(今の中田運送倉庫と広瀬家)今は断絶して京極を名乗るゆかりの跡を訪うべきもないが、高島町と京飯家とのかかわりは、昔話の中で増えてゆきっつある。

大溝城ゆかりの浅井、織田、豊臣、六角、京極家に変遷はあっても、御本丸は高島の歴史として現存している。語って書き残しておかねばならない高島の昔話の好材料なのだ。

出典:「高島の民俗」 昭和57年1月1日号