大溝城御本丸物語

公民館 山本庄助

王政の衰えに乗じた比叡山延暦寺が跋扈して、湖西全域は同寺が領していた時がある。その後佐々木信綱が宇治川先陣の功などに依り、力を強め湖国全土を領有した。長子泰綱は、滋賀・栗太・野州・甲賀・蒲生・神崎の六郡を領し、六角近江守泰綱を称し、二男氏綱は、他の六郡を領して京極近江守氏綱を名乗り、三男高信は朽木の地頭として朽木近江守高信となっていた。父信綱は、晩年剃髪して朽木谷に興聖寺を創建し、菩提寺にして隠居処としている。

永正十四年、京極高亮は湖北の雄浅井亮政と戦い、破れて湖北・湖西六郡を失なった。亮政は、家臣磯野丹波守員正に高島郡を与え、命に依り、高島郡の最南端の要害に大溝城の築城を計った。大溝城未完成の天正元年、浅井家と織田家が不和になり、両軍の戦いは姉川をはさんで熾烈を極めた。戦国時代とはいえ、信長は、妹のお市を浅井の曹子長政に嫁がせていて、三人の女子もあったのだ。最初優勢だった浅井軍も、天下統一を狙う織田軍に討ち取られた。戦の熾烈な間は、三人姉妹は大溝城の磯野丹波守に預けられていたのだ。浅井家は、長政以下の自決にて小谷城で滅亡した。磯野員正は一早く織田信長に恭順して、その臣下に加えられた。員正はよく時勢をわきまえ、順道を誤らず巧みに洞察して出処した。英知の武将であったのだ。

天正六年、織田信澄の領地となり未完成だった大溝城本丸を丹羽長秀に命じて完成させたが、これには三年の歳月がついやされた。しかし、天正十年思いもよらぬ本能寺の変で、信長は自決した。張本人明智光秀を討ち取った豊臣秀吉は、一歩一歩天下取りの階段を登って行く。天下は変動して、辺地の大溝城にも深い関係が生じている。

織田信澄は同年突然移封されて丹羽長秀の長子長重が領主に変り、加藤光泰・生駒親正・新庄真頼・上杉景勝と猫の目の様に領主が変り、大溝城は一つの拠点に過ぎなかった。天正十八年京極高次は大溝領主として先祖の旧領地に還り咲いた。その年の十二月には、長政の三姉妹の次女「はつ」を娶る。浅井長政に攻め滅ぼされた京極家が、旧領地に復員し、仇であった浅井の娘を嫁に迎えるという不思議なロマンも、戦国の慣習だったのだろうか。京極家には高亮が残した二人の遺児があった。当主の高次と姉の龍子である。姉の龍子は京極家復興のため、天下を握って旭日昇天の豊臣秀吉の女色好みに働きかけ、自らを人身御供の犠牲にして一国一城を得たのだ。

秀吉には数多い簾中があるが、はつの姉、茶々(淀君)にも増して寵愛したのは龍子だった。大坂城局の密室で鼻の下を長くした天下取りの大閤関白が、龍子の肉体に溺れ、言うがままになった姿を想像するとむしろほほ笑ましい。

京極高次の旧領地恢復も、お市の方の次女はつの結婚も、有無を言わさず秀吉の一言で決められたのだ。龍子は、簾中にあがると松丸君と呼ばれていた。

松丸君に付添われ、堀吉晴の護衛にて、二十五才の城主高次に嫁いで来た「はつ」は、その時十八才。幼時姉妹とお預けになっていた大溝城に迎えられたはつの心情は、どんなものであっただろう。盛大な挙式の夜、若い二人が城の本丸の屋形で、精も根も空白になる程愛し合ってどんな睦言を交したかは伝承されていない。

戦もなく天下はおさまり、大溝城は平和であった。城主高次夫妻にとって、何一つ不足はなかったが、二人の間に子供の産れないのが悩みだった。高次が待女の紅に手をつけたのは、平凡で退屈病のせいだったのだ。紅は打下の庄屋、山田氏の娘だった。紅の懐妊が定まると、ひそかに磯野善兵衛信隆が預かった。浄光院(はつ)の嫉心は仲々おさまらず、善兵衛は危難を避け、京都の安居院に預けた。

文祿二年癸巳、紅は男の子を誕生した。後の京極忠高である。出産後も浄光院(はつ)の心中は和まず、大溝城内でも不思議な噂話が生まれたが、ようやく三年たって、龍子の松丸君の取成しで浄光院(はつ)の心も解け、住所を隠して転々としていた。忠高三歳の春、湖北の須賀浦から大坂城に参内して、関白の前で高次との親子の対面の名乗りの式が行なわれた。

この内紛で一番貧乏くじを引いたのは磯野善兵衛で、浄光院の御機嫌好ましからず、すべての職をおろされ、京極家から永のおひまが出て知行も取り上げられた。高次からは、ひそかに内帑金を賜っていたと伝承している。

慶長五年、京極高次は若狭守に任ぜられ、小浜城に移封された。高次移封後は噂の本丸には誰も近寄らなくなった。

元和元年、伊勢上野城から分部左京亮光信が移封されて、大溝城主二万石の大名に取立てられた。分部侯も大溝城の屋形には入ったが、御本丸は避けたようだ。手入れする者もなく、くずれ残った石垣と建物の朽ちた礎石が、三百年の風雪と年代の重みに耐えかねているのが大溝城御本丸の今日の姿である。

出典:「高島の民俗」 昭和56年11月1日号