白井 忠雄
ーはじめに―
“祭とはムラの気質であり芸術である。”
大溝祭は大溝の郷社であった日吉神社の春の例大祭で、湖西地方随一の曳山祭である。
この大溝祭を語る前にすこし大溝についてみてみることにしよう。
ー大溝ー
大溝の地は南西に比良山地北縁の山々が扇状に広がり、東は勝野津として入江が位置し、北には安曇川と鴨川によって形成された沖積平野が開けている。また、大溝から打下の南には内湖の洞海(乙女ヶ池)がある。
気候としては表日本型と裏日本型の中間で、漸移地帯に当り、秋から冬には”高島しぐれ”が降り、冬には雪も多く見られる。
大溝の地が歴史に登場してくるのは古く、万葉の故地として勝野の名が出ている。
“何処にかわれは宿らむ高島の
勝野の原にこの日暮れなば”
(万葉集巻三ー二七五)
また、古代の内乱である壬申の乱(六七二年)の時には、勝野は戦場となり、この時に三尾城の存在が歴史上に出てくるのである。恵美押勝の乱(七六四年)では、押勝の一族郎党が「勝野の鬼江」で捕えられ鬼江の浜で斬罪された悲しい出来事がある。
交通路としての位置は、畿内と北陸とを結ぶ要地である。平安時代の書物である「延喜式」によれば、穴太―和迩ー三尾ー鞆結の各駅家があったとしるされている。駅家と合せて、勝野津が要港として開かれていたことが述べられている。
現在見られるような町割りは、天正六年(一五七八)に織田信長の甥で磯野丹波守員昌の養子織田信澄が、城を新庄城(新旭町)から、大溝に移したところから始まる。築城の設計・監督は明智光秀の手による。信澄の大溝城跡は、高島病院の東側に小高い丘に石垣のみ残す本丸跡がある。城としての広がりは定かではないが洞海を巧みに利用した天正時代の水城であった。
その後、元和五年(一六一九)に伊勢上野城から分部光信が二万石で大溝に藩主として移封された。信澄が築いた大溝城はすでに荒廃していたので、西側に陣屋(郭内)を構え、惣門より北側に長刀町・江戸屋町・伊勢町・船入町・紺屋町・職人町・蝋燭町などの町家を整備し、城下町を完成させた。
今も大溝の地域は昔の面影をよく留めており、心が和む。大溝祭は、町家を中心とした町人衆の祭である。
つぎに、いよいよ大溝祭を見学に行こう。
ー大溝祭プロローグー
大溝祭は、日吉神社の春の例祭である。日吉神社は石垣村の産土神で、祭神は大山咋命である。創建は定かではない。明治二年(一八六九)に山王権現を日吉神社に改め、同九年十月村社に制定する。大正六年(一九一七)八月郷社に昇格した。
祭の古記録は巴組に保有されている”御祭礼一式留記”より、享保年間(一七一六〜一七三七)にはすでに行なわれていたことがうかがえる。
祭礼月は、毎年四月一日(旧暦)であったが明治五年に太陽暦となり、旧の四月一日に執行された。明治二十二年旧四月一日が五月八日であったので、以後、五月八日を大祭とした。しかし、昭和三十六年からは五月五日と定めて今日に至っている。
ー祭までの日々ー
今年の祭をどのように行なうかという準備会を四月二十日前後に氏子総代や各組の組長と役員で開く。
五月三日は幟立と山車の曳初めを行なう。幟立とは、龍組(中町と西町)・湊組(勝野)・巴組(南本町)・宝組(北本町)・勇組(新町)の各組で青年会(二十五才までの男子)が日吉神社や御旅所(打下に所在)に幟を立てて、祭に入ったことを周囲の人々に伝えることである。湊組は、御旅所へ幟を立て、他の四組は日吉神社に立てに行く。本祭の時に、神興は渡番が舁く。渡番は町組が順番にあたり、御旅所の清掃を行なっている。
ー宵山巡行ー
宵山は五月四日である。この時山組では、山車に各町組の名称を書いた提灯を付けて飾り、夕刻五時すぎ各山蔵から一斉に飛び出し、七時三十分に中町へ集合する。八時より五基の山車が一列になり町内に向けて巡行を開始する。その時、上山(山車の上部を上山といい、下部を下山と呼ぶ)では、囃子方がここぞとばかりに腕前を披露し、自分の町内が近づいてくるとより一層熱がこもった演奏となる。…
一方、神社では宵宮祭が行なわれており、区長・役員・各組長らは正装(絞付羽織袴)で参列する。宮元町(榊組)からは一戸に一人づつ出て二百灯の灯明を奉納し神興の脇に付く。その後に神前協議がもたれる。
町内では、延延と曳山巡行が続けられている。巡行路は、中町ー西町ー惣門ー江戸屋町ー長刀町ー南本町ー北本町ー新町の順である。約二時間巡行して後に新町のはずれで解散して各山蔵へと帰っていく。
ー本祭ー
本祭では、神社へ区長・責任役員・氏子総代、各組の神社係の組長が参列し大祭の儀式が行なわれる。各組の山蔵では午前九時半に山車が惣門に向けて出発する。惣門前に五基の曳山が集合し囃子方は競って演奏をする。
五基の曳山は、午前十時に日吉神社に向けて出発する。 五基の曳山の内に先頭をハナヤマ(端山)と呼ばれ、宮元町の御幣・紅白の鏡餅・神酒を積む。日吉神社の境内に曳山が集まると、神興舁きを宰領(渡番の組より選ばれる)が鳥居前に集合させる。
神興舁きは神社の拝殿に向い安置されている神興をかつぎ、下へおろしてくる。そこで、神興の頂上に鳳凰を取り付け、神輿の内に御神体を入れる。神様の入った神輿は神輿舁きによって五基の山車の前まで出される。この行動を三回くり返す。その様は、大溝人の活気を彷佛させる。
神社から出された神輿は、現在、諸般の事情により自動車に乗せ御旅所まで行く。先頭は、宮元町より剣鉾・笠鉾が出て、各役員がつく。神輿を出した後、各組の曳山は神社で曳き別れとなり、各山蔵へと帰還する。
ところで、昔は、神社を神輿が御旅所へ向う後には五基の曳山も付き、到着が午後二時前後であったそうだ。御旅所を出るとつぎに、新町の三嶋稲荷神社に向う。以後の行程は、中町―勝安寺―西町―石垣と約四キロメートルを一日たっぷりかけて神輿と同じように町内をまわったそうだ。
―大溝祭エビローグー
私が大溝祭を見学させてもらったのは、今までに二回である。この二回の見学より感じたところをすこし書きとめておく。
祭とは神様を呼ぶことである。日吉神社の位置する所は、背後に神奈備型の山があり、いかにもその山に神様が降臨されそうである。山に降りてこられた神様をなんとか町内にまで来ていただこうと考えたのが神輿としての形に表現されたのであろう。
大溝祭では、神様をむかえに行く時、五基の曳山で神社に向う。神輿の内に神様を入れると神輿が神様となる。町内へ出る時には、神輿の前に露捕いが出、後に五基の曳山がつらなる。
曳山について、曳山は上山と下山とにわかれる。本祭の時、曳山が日吉神社へ向って行く時、上り馬場と呼ぶ、この時、囃子方は下山で演奏をする。上山には人はいない。これはなぜにであろうかと疑問をいだく。ところが、明治二年の記録に”御一新につき浄瑠璃なし”の文書があった。そうすると、どうも昔には上山で浄瑠璃をしていたようである。胴幕や見送幕にも各曳山ごとに趣向を凝らし見る者をたのしませてくれる。曳山巡行の際に曳山を方向転換させる方法は、山車の前後にテコが出されており、マエテコとウシロテコによって四・五人のテコトリが行なう。
―今日的な大溝祭―
町衆のパワーとして江戸時代に形成された大溝祭は今日まで脈々と続いてきている。それは、大溝のひとつの歴史であり芸術でもあったろう。
その大溝祭を後世に伝えるために、昭和五十七年四月二十日に大溝まつり保存会が発足し、同年六月一日に町指定無形民俗文化財に指定された。また、今年の春には滋賀県の選択無形民俗文化財にも指定された。
祭は多くの人々の協力によって成立する記念行事である。そこには、男の役割・女の役割があると考える。表面的には男の役割が大きく取り上げられるが、それを支える裏方さんの女の役割を十分に考えなければならないと思う。祭がひとつの行事であるかぎり多くの行動がそこにあると推測される。
私が今回ここにレポートさせていただいたのは、ほんの触り程度であり、祭りの本質はまだまだ遠い所にあると思う。
私信、今日のレポートを作するにあたり、五組の西田清一郎(72才)さんにいろいろとご教示を願った。つつしんで感謝します。
出典:「高島の民俗」 昭和58年5月1日号