山本庄助
甲賀郡甲南町杉谷にあった杉谷城は、城主杉谷与藤次が甲賀五十三士中の一人として、佐々木六角高頼の旗下に属し、この城を守っていた。一族の杉谷善住坊は、娘を六角義賢の妾として差し出していた鉄砲の大名人であった。元亀元年(一五七〇)五月、願成寺山(蒲生町川合の玉緒山の南岸)にこもり、六角義賢の命を受け虎視眈眈、その当時敵対していた織田信長が、越前今庄で浅倉討伐の攻撃中、浅井長政の反逆により背後から挟み打ちの攻撃を受け、急きょわずかの付人とともに敦賀に逃がれ、湖北の山づたいに朽木谷越えで命からがら退却して岐阜に引き上げの行軍中、義賢の命令で信長を狙撃しようとしたが陳がなく中止した。が、義賢の激怒で千草越えで再び信長を二つ玉で狙撃したが、弾丸は袂を貫いただけで失敗に終わった。
その後善住坊は六角義賢の没落により、転々として逃げ回り、打下の林与次左衛門員清の下に逃れ、城山のふもと、いやが谷にかくまわれていた。しかし、天正三年(一五七五)九月、林与次左衛門は朝倉・浅井側に加担した罪により捕えられ自害して、林員清家は断えている。
打下村城山のいやが谷にかくまわれていた杉谷善住坊も、安住の地なく、堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを捕えられた。信長の命により、ノコギリで首をひかれて殺されている。
ノコギリで首を斬り、さらし首にするという刑は、その当時、いろいろな残酷な刑があったが、もっとも残忍な、極刑中の極刑だったのだ。それほど、信長の善住坊に対する憎しみは、激しかったものと思われる。
善住坊を堀川村の阿弥陀寺で捕えたのは、当時の大溝城主、磯野丹波守員昌である。信長の命により、城下はずれの刑場で、善住坊を処刑したとのみ伝承されているが、現在の和田打川畔の国道一六一号線沿いの供養塔の立っている刑場跡ではなかろうか、と思われる。もちろん善住坊は極悪人として処刑せられたので、今の供養塔はそれとは決められないが、小川村の小島某氏が建てたと言い伝えられている。磯野家は善住坊を捕えた堀川村(蘂園)にも城があり小川村にも城をもっていたのだから、善住坊の処刑については、磯野家とは切り離す事はできない因縁が存在している事は明白だ。
林与次左衛門員清は、六角義賢の城代として、小松村鵜川打下村を領有していた家臣である。磯野丹波守員昌が、佐和山城から大溝に移った時、湖上輸送の責任者として加勢している事も伝承されている。林員清家は断絶、その子孫は今の鴨や畑に多い林姓との関連は、知る由もない。
出典:「高島の民俗」 昭和60年3月1日号