近江高島</br>大溝の水辺さんぽ

乙女が浦由来記

(公民館)山本 庄助

高島町打下(うちおろし)の石屋、岩松爺さんは、城山の石材切出しに今日も道具箱と弁当をせったろうて(背負って)朝早く十禅寺山の山裾をスタコラ登って行った。

いつも通る道の端の地蔵さんの前にくると、ねんねこで包まれた赤ん坊がスヤスヤと寝ているのを見て驚いて抱きあげ、あたりを見まわしたが誰もおらぬ、とっさに捨児であると…… 岩松爺さんは道具をその端に置き、子供を抱いて家に引返した。婆さんもびっくりしたが、夫婦には子供がないので、これは地蔵さんのさずかり児であると、貰い乳やおかゆで大切に育てた。

このような女の児に”くら”と名付け、岩松夫婦の手でスクスクと成長し、日がたつ程に美しい乙女になった。

岩松爺さんは、相変らず城山の石材切出しに精を出し、婆さんは畑仕事や山の仕事に精を出していた。

“くら”も婆さんの仕事を手伝って、世間でもうらやましがられるほど平和で楽しい一家だった。”くら”は自分が捨児であることは知らされていなかったので、岩松夫婦を真実の父母として孝養をつくす気だてのよい娘だった。そして小さい頃からなぜか石地蔵さんが好きだった。いつもこの地蔵さんの側の一本の柳の木の陰で湖を見ながら、手まり歌をきれいな声で唄っていた。

向こうに見えるは何舟ぞ
お姫さんの乗り舟ぞ
お姫さんの乗り舟に
小さな子供がチラホラと
大きな子供がチラホラと
その子の名をば何んとつけよ
八幅小太郎とつけてやろし
八幅小太郎のゆい小袖
染めておくれよこうやさん
染めてやるのはよいけれど
今年はにわかの稲刈りで
稲はたおれる鎌折れる
鎌屋はどこじゃとたづねたら
西の国のどうさい坊
東の国のどうさい坊
娘が三人あったなら
一番中てのよい娘
京の六条に貰われて
金らん小袖は十二こそ(こそは重ねのこと)
これほど仕立ててやるからに
あとえ戻ろと思うなよ
あとえ戻ろと思うなよ

“くら”の唄声は湖を渡って、勝野の村里にまで聞えるほどだった。しかし、不幸はいつ起こるかわからないもので、こんな幸福な”くら”が十五オになったとき、婆さんと畑仕事に励んでいるとき、一匹の蜂に刺されたのが原因で顔中に湿疹が出来、それが化膿して全身に広がった。さあ大変、医者よ薬よ神仏よと、岩松夫婦の祈願もかなわず、”くら”の顔は天女のような昨日の美しさに引替え、まるでふためと見られぬ見にくい顔に変ってしまった。その後、くらは毎日地蔵さんの木の陰に行き、湖に写る己の姿や顔をじっと見つめる悲しい娘になった。

そしてあのすき通るような美しい声の手まり唄も歌えなかった。のどが痛んで声が出なくなったのだ。岩松爺さんもこんな悲しい娘の姿をただ見守っているだけでどうすることもしてやれなかった。

半年ほどたって山には紅葉が映える頃になると、姿はこつ然と消えてしまい、夜になっても帰らぬので娘をさがしにいつも坐っていた椎の木の下にきたが見当らなかった。そこで岩松夫婦が見つけたのは裏湖(乙女が池)の浮草の間に浮んでいる”くら”の悲しい水死体であった。さっそく引き上げたところ、その”くら”の顔は今までのみにくい顔ではなく、もとの輝くばかりの美しい顔だった。
ふと岩松爺さんが石の地蔵さんを見ると、いつもの童顔の地蔵さんの顔が見にくくゆがんで崩れ、その目からは涙が流れていたとか…。

その後、城山の下の裏湖を誰いうとなく「乙女が浦」と呼ぶようになり、地蔵さんは「くさ也蔵」といわれて子供の湿疹などを治してもらうため多くのお詣りがあるという。

出典:「高島の民俗」昭和54年5月1日号

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