打下集落
乙女ヶ池東側の砂州上に展開する打下地区には、織田信澄による大溝城築城時、平時は舟運や漁ろうに携わり、戦時には水軍に転換する集団が配置されました。
打下は琵琶湖と内湖に挟まれた特殊な場所にある集落で、その暮らしぶりも独特なものでした。
家の表側は道を挟んですぐ琵琶湖で、高波・浸水防止のための石垣を築き、浜にはハシと呼ばれる桟(かけはし)をかけ、洗い場として利用していました。
家の裏側には内湖があり、各戸、舟を停留し、対岸の田んぼまで舟で行き来しました。内湖は農業排水や生活排水が流れ込むため、栄養が豊富で水草が育つのに適しており、刈った水草は田んぼの肥料にしていました。また、農具など汚れたものを洗う洗い場としても機能しており、食器や野菜などを洗う琵琶湖側の洗い場とうまく使い分けを行っていたようです。
しかし高度成長期以降、生活様式が大きく変化するにつれてこうした暮らしぶりも次第に姿を消していきました。