近江高島</br>大溝の水辺さんぽ

大溝について

白井 忠雄

一、大溝の歴史

先日、八月二十三日の日に教育委員会が主催した。親子歴史教室の案内役で、ひさしぶりに大溝周辺を歩き、あらためて大溝の歴史の深さを確認した。

大溝は、万葉の時代には勝野津と呼ばれる港(現大溝港)があり、都人が北陸へ赴く時などに立ち寄る場所であったようだ。また、北陸からの物資は勝野津を継由して都に運ばれたと云う。

このことからも、勝野津(大溝港)がいかに大切であったかがうかがえる。

中世の末になると、織田信長の甥にあたる織田信澄が天正六年(一五七八)に信長より高島郡が与えられ、それまで高島郡の中心的役割を荷なっていた新庄城から、新しく大溝の地に城を築くことにした。これが、大溝城のはじまりである。

現在、大溝城には本丸の石垣しか残っていないが、もともとは城隍によって囲まれて、水門は洞海(乙女ヶ池)につながっていて湖水の流入する水城であった。

また、城隍の外には侍町通りをめぐらせ、本丸を囲み、西側には職人町と足軽町を形成した。惣門から北側については、新庄城下の商人を移住させ町屋を建設した。ちなみに、本町通りを中心に、南市本町・新庄本町・今市本町・今市中町・新庄中町・今市新町・新庄新町の町名が今も伝えられ、南市(安曇川町)や新庄・今市(新旭町)などから、多くの人々が移って来たことがうかがえ、織田信澄の大溝城下形成の過程を知ることができる。これらの町名はいつまでも伝えたい歴史的地名である。

ニ、城下町大溝

元和四年(一六一八)十二月、北伊勢(三重県)の上野城主分部光信は、徳川家康の命により江州高島郡大溝に移ることとなった。
元和五年八月二十七日、分部光信は四十五名の譜代家臣とともに大溝に入った。

分部光信は、まずはじめに大溝城下の整備と建設にとりかかり、ここに本格的な近世城下町である”大溝”の町づくりが始まる。

町づくりは、信澄が築いた大溝城の西側に陣屋を構えることから始められた。現在ある公民館の西あたりに藩庁および藩主住居を置く。藩庁の西には惣門に向って大手通が作られた。大手通の西と背戸川南部一帯の石垣村に家臣四十五人の居所と定め、武家屋敷を作らせたのである。この武家屋敷一帯を郭内と呼ぶ。

郭内には、北町通・中町通・南町通の通路があり、惣門以外に西門・南門・会所門があり武家屋敷区域を作っていた。

また、郭内の北側には職人町を整えた。職人町には、先述のように織田信澄が大溝に城を移した時に南市・新庄・今市から移住してきた人人に加えて分部氏の入封以降に成立した町とし勝野・六軒町・長刀町・江戸屋町・伊勢町・燭町・十四軒町・職人町・西町・石垣町・紺・船入町の十二町がある。

これらの町の内、長刀・江戸・伊勢の町名は分部家と何やら関係のありそうな名前であるし、蠟燭・職人・紺屋・船入などの名前は職業的な名前であるのでいろいろな仕事を思いうかべさせてくれる。

各町内には、水路が走り江戸時代の景観をよく保っている。

私は時々この町屋を歩くが、歩くと不思議に心が落ち着く。それは、古い町並が持っている独特の雰囲気が私を包みこんでくれるからであろう。

三、郭内について

郭内は、現状では住宅と田地が半々づつみられる。この六月から七月にかけて南町通の一角で発掘調査を実施する機会があたえられた。田地を一枚下げると写真のような上水道施設があらわれた。

これは、水源地が山ノ手(日吉神社の近く)にあり、そこから郭内の各家庭に引水している施設である。竹で樋を作り、樋と樋をつなぐには松でつくったマクラと呼んでいるつなぎの部品で長くつなげて引水する。

今回の調査では、マクラに墨書が見られ「文政十二年」(一八二九)の年号が記されていた。このことから、江戸時代の後期までは十分にこのような敷設工事をしていたことはうかがえるが、いつの時代より竹樋を使用していたかについては不詳である。たぶん江戸時代の中ごろには使用を開始していたと思われる。

竹樋を観察すると、竹の中には白い細かい砂がつまっている。そして、竹の断面をみると下の方は砂がたまるので竹の残りはよいが上の方は皮一枚になっている。こんなことから、竹樋はよく交換をしたそうである。

戦後になると竹樋のかわりに自転車のチューブを使ったことがあるらしい。今日では、写真のように水源からビニール管によって各家庭に引水している。

この引水されている家々は、とゆ仲間・井戸組などの仲間や組が数軒から十数軒によって生まれ今日でも共同管理している。

現代社会にあっては、水は水道の蛇口をひとひねりすれば求められるものであるが、その昔はたいへんな苦労をして水を各家に引きこんでいたのをこの遺構によって知ることができる。

江戸時代の建築・文化などを見ると、そこには日本文化の完成を見る思いがする。建築では、日本の風土にあった木と紙の建物が眼にとまる。日本の気候は湿度が高いので、木や紙の特性で伸縮性を利用した建物は最適であったろう。

また、文化面では華道・茶道・歌舞伎など我我が今日でも親しんでいる文芸はほとんどが江戸時代に完成されたものである。

いま一度、新しい眼で我々が生活している町をながめてみよう。そこには、江戸時代の文化や遺構が多く見受けられるにちがいない。

出典:「高島の民俗」 平成2年9月1日号

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