まち割水路と古式水道

大溝城初代城主・織田信澄は天正6年(1578)、新庄(新旭町)から城を移しました。城下町を整備するにあたって、新庄や今市(新旭町)、南市(安曇川町)から商人や職人・住民・寺院などを移住させて商家(町屋)のまち並みをつくりました。その時行われた、京都のような間口が狭く奥行きの深い短冊形の区画割りはほぼ現在に引き継がれています。
元和5年(1619)、分部光信が大溝藩主として入封し、新たに武家屋敷地が造られ、町人地はさらに拡張されました。
城下の各町内全てには豊富な生水を有効に利用した水路を配し、生活と防火に備えた用排水としました。

また飲水のための2系統の上水道(古式水道)も整えられました。日吉山の山水と湧水を地下から竹筒で運び、ところどころで分水のためにタチアガリと呼ばれる施設を作り、各家に水を引き入れました。古式水道は現在も利用されており、日吉山水道組合および勝野井戸組合による維持管理がなされ、地域共同体の結び付きを維持する機能を果たしています。
こうした城下の全てに水路を配した城下町や、各家に飲水を引き込む上水道の仕組みは全国でも珍しく、戦時だけでなく生活や防災にまで配慮した、当時としては先進的なまちづくりが行われたと言えます。