鵜川四十八体周辺

山本庄助

一、
昔と言っても、大正初期の、私達の子供の頃の湖西路は、今とは大分違っていた。

北小松のよろい岩で、湖と山との隘路を、やっと人間の徒歩できるようなあやぶい道を明神崎まで来ると、また湖と山との崖っ淵の隘路になって、白鬚神社の社殿と鳥居の間を抜ける境内に、白い道が通っていた。神宮の梅辻さんと高橋さんと石屋の源次の三軒が、社務所と並んで山の崖下にへばりつくようにあり、その前を軒すれすれにだらだら坂の細い道があり、源次の石屋を越えると、坂道も急になって、山狭に入る四十八体の前の道が湖西街道であった。

もちろん、この山道から見下ろすような明神崎の崖の下には、湖に添って細い道はあったが、湖面の増水した時や、湖が荒れて波の高い日は、危険で通れなかった事もしばしばあったが、もっぱら四十八体を通って、打下や勝野に出る道を通ったのだ。九月五日の明神祭には、四十八体の道を、明神さんで店屋や見世物に見呆けて日が暮れて、暗い道を恐しいので、大きな声を張り上げて歌を歌いながら、通って来た事もあった。遠くから参拝した人が、お祭りの買物と鵜川の善光寺藁を背中に背負って、通ったのもこの道だ(鵜川のもち葉は、腰が張り、藁作工品に貴重なものだったらしい)。

二、
四十八体(現在は三十五体)は、昔と変らぬ所に瞑目して坐って御座るが、子供達には何となく肌寒くなるような、おとろしい淋しい道だった。四十八体の後の丘は、打下と鵜川の共同墓地になっていたが、夜などはよく人魂が飛んで気味悪かった。野狐や野狸もたくさん居て、狐や狸にだまされた村人達の話も、口伝にいくつか残っている。現在は灯りもついて、崖下を完成された一六一号線の車の騒音が行き交うので、もう狐狸も住みつかず、時折、墓のお供物をねらう野猿が出没する静かなたたずまいになっている。
墓の入口に石室のような窪地があり、由緒ありげな地蔵さんが二体並んでおられる。地蔵さんの前の小さな池は、昔道中の人の水呑場であり、また墓詣りの水汲場でもあった。昔、この室の中に隠れて、附近の五位の山田の水の取り合いに、水番にひそんで夜を徹した気丈な婆さんの話も私達の耳には残っている。山の田んぼの水を守るために、こんな淋しい気持ちの悪い所で、幾晩も夜を徹した百姓の根性は、見上げたものだ。

蚊や蛇に責められながら、私は子供の頃からこんな交通の悪い、しかも湖西の人家もない所に、六角義賢(高頼の嫡子、入道して承禎と号す)、近江を二分した天下取りの大大名が、母呉服の孝養として創ったと言われる、四十八体の臣大な石仏があることに、何かしら疑問を抱いていた。その後、この地で、恵美押勝(藤原仲麻呂)が、弓削道鏡に攻め滅され戦死し、その夫人、沙々貴山君も押勝と一緒に凶刃に殺されている事実を知るに及んで、沙々木家の出である、佐々木ゆかりの六角家の正統義賢が、母の孝養の仏四十八願の四十八体仏を安置し、孝養供養と名を借りて、先祖の霊を祀った事に気がついた。実はこの鵜川の辺地は、六角(佐々木)の一大霊地なのだ。

大銀否を中心に、盗難を恐れて金網で囲った三十五体は、雑草にまみれて古びておわすが、大津市坂本町本町の慈眼大師廟に移された十三体(内一体を欠く)跡は、明治から昭和にかけて、戦争にたおれた打下・鵜川の戦死者の墓標が立ち並んで、様想が一変している。後の丘は、共同墓地として、見渡す限り村民の墓地で、大小の墓標が斜面をおおい尽している。共同墓地の一番高い樹立ちに隠れる所は、白鬚神社の徳冥辻家と、高橋家の墓地である。一般墓地の中に、あちこちに自然石に墓名も定かでない墓が散在している。墓地の中段、一番よい場所に釋義秀の墓とした自然石の墓がある。打下の石倉家の墓地内であり、明治三十八年十月十五日、石倉利右衛門とあるが、石倉家の過去帳には義秀という武士の名前の記載はなく、誰の墓かも解らないが、墓地内にある墓だから、ねんごろにお詣りしているのが現状だ。

滅亡当時の六角氏の系図を見ると、義賢が信長に討ち滅され、その子孫一族四散して行方不明になって六角家は断絶している。

氏網―義実―義秀―義御
定頼―義賢―義治―義定

墓に彫まれている義秀は、何を物語っているのか。もともと四十八体の鵜川墓地には摂取庵というお寺が街道添いに建っていたのだから、ここに隠生した義秀が、晩年を終り、埋ったものとも思われる。興亡の激しい戦国時代に、うまく時流を泳いだ者と、逆の道を歩いた者との差は、すべてを秘めたまま忘られてゆくのだ。

摂取庵も廃絶して、建ちくされ、その寺跡あたりは最勝寺 (山田家)の墓地化しているが、摂取庵の”びんずるさん”のみは、塗りもはげて痛ましげな姿で今も最勝寺の縁側の片隅に、冥同して坐っておられる。今は、お詣りすることもまれだ。義秀の墓地の上の段に、勝野の地頭であった中条家の墓も、二十基ほど並列しているが、同一墓地内に松堂宗誌信士、和田??と読める墓がある。土地の人が、墓のお守りをしている間に、いつか自分の墓と混同したものと思われるのが、特徴だ。

出典:「高島の民俗」 昭和58年9月1日号

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