蓮如腰掛石

公民館 山本庄助

大阪石山 (今の大坂城)に布教の拠点を置いていた蓮如上人が、豊臣秀吉に攻め落され、夜陰に乗じて八軒屋から三十石舟で伏見に着き、桃山城をはばかって小栗栖街道を逢坂の関を迂回して、三井寺裏に出て、湖西路を北へ開祖親鸞上人の紙衣の旅の苦悩を重ねながら、蓮如布教の勇猛心は少しもおとろえなかった。唯これ念仏称名の逃亡だった。

どこに豊臣方の手が廻って追手が現れるか分からない。不安な中を白鬚神社をすぎ、十禅寺山の中腹に来かかった。その山道で山駕をかついでいた一人が急に腹痛を起し、七転八倒の苦しみ、蓮如上人は駕を降りて山道脇の見晴しのよい台地の露出した石の上に腰をおろされた。

お忍びの落人の旅の事とて小者一人という旅、上人はすぐ山の下の打下しの在所に人夫を走らせた。急を聞いた廻船問屋山田屋の当主はすぐ馳付けて、病人を自宅にはこび、介抱につとめた。

蓮如上人は台地の石に腰をおろしたまま前に拡がる琵琶湖の景色に見とれておられる。遠くかすむ彦根を中心の東近江の山並み、きらめく湖の美しさ、あまりの景色の見事さに大阪を落ちのびてからの苦い旅を忘れ茫然と時のたつのも忘れられたことだった。
ひとまず蓮如上人は、この山を降りて勝野の上原屋に休まれ、山田屋が用意した駕かきの片棒で一路北陸の新天地へ潜行の旅を続けられた。蓮如上人の偉大な宣教は、越前一帯を有数の信宗王国化されたのは後日のことである。

この縁により回船問屋山田屋は、寺院となった今の打下の最勝寺がそれである。毎年四月十九日この蓮如上人の旅をしのび、大阪から山駕で御影を奉じて「蓮如さん」といって北国への旅が続いているが、近年はリヤーカーを押して通るようだ、沿道の人々は今もこの姿を拝みに出ている。

この町の水道浄水場裏の腰掛石も、いまは石の垣に囲われて雑草に埋もれ、びわこの展望も樹立の底に沈んでいる。

出典:「高島の民俗」 昭和55年5月1日号