打下の集落

近江高島駅前T字路(旧一六一号線)を右へ、約三百mも過ぎると日吉神社の御旅所があり、打下の集落に入って行く。長法寺山からの眺めは、有名な天の橋立の様にも見え、浜の中州に立ち並んだ集落では、琵琶湖をオモテウミ(表海)、ウラウニ(裏海、乙女ヶ池)と呼び、表の海の防波堤に積まれた石垣は一見城壁の様にも見られたが、石垣は一六一号線(高島バイパス)の攻め立て工事(昭和五十七〜八年)によって、そのおおかたの姿を消している。しかし、この工築にともなう技術など想像すると様々な先人の生き様をかいま見ることができる。打下は、「打嵐」と記されたときもあったようであるが、地名の由来は、長法山から激しい嵐が吹き下ろすことからとも伝えられている。

また、打下には権田(ごんだ)の地名がある。ここには日吉神社があって、宮座があり、石燈篭に「旧人講」の文字が見られ、山田、富永の二氏をモロト(旧人)筋と称されている。また、打下の丘には「蓮如の腰掛石」がある。その伝承は、最勝寺には「最勝寺文書」、浄照寺も拘わりを持つ村人の願い寺である。

字権田は、ゴンザという砂を搬出するが、一帯の地名でもある。他に、五井ヶ崎(三尾崎、明神崎)と呼ばれてきた所がある。ここには昔、小川があって、滋賀郡 (小松村)との境となっていたようであったが、戦後の町村合併によって、この辺りも鵜川と共に高島町となっている。

現在、青松、白砂の続く湖岸は白鬚水泳場として、また、最近ではウインドサーフィンのメッカとして賑わっているが、昔は、北と南の風が交差し、魚が集まる漁場であったり、浜風に吹き寄せる砂を採って商うような人達があったと伝えられる。

打下の集落では、昭和三十年頃まで、江戸時代から使用された龍骨車、竜骨車と言われる揚水機があって、乙女ヶ池などで多く見られ、この辺りの稲作文化を伝えるうえで貴重である。

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