大溝井戸仲間考

白井 忠雄

暑い‼︎ 暑い‼︎

昭和五十五年の夏。鴨地区でホ場整備に伴う埋蔵文化財調査を僕は行なっていた。この夏も御多分に洩れず暑い夏だった。調査中の休みを利用して、よく鴨の村をあちこちと歩き廻ったもんだ。その時、南鴨にある飲料水用のため井戸をアルバイトに来ていた学生が見つけ、みんなでその井戸水を飲みに行った。

「ゴックン・ゴックン」とみんな一気に飲み干した。みなさんも経験があると思いますが、夏の暑い時に冷たい井戸水を口にほうばるのは、なんとも言えない気持である。井戸水ってなんてこんなに美味しいのだろうかとふと考えさせられる。冬は冬でちょっぴり温かいし。きっと井戸水には土の栄養が溶けこんでいてこんなこと思わせる不思議な力がある。

水と塩は人間が生きてゆくのに必要なものである。まして、水に関しては治水という言葉があるように水の利用というものは、人間生活にとって切っても切りはなせない関係にある。

そんな事を考えている時、大溝の街の内に井戸仲間という風習があるのを聞いて興味を持ち、今回、二・三のお宅におじゃましてすこし井戸仲間についてお話をうかがえたのでここにレポートします。

“大溝” この名前を聞いただけで、なんとなく水と深い関りを持っている街だなと感じさせる地名である。

一番目に訪れたお宅は、大溝紺屋町の小島茂一さん宅である。このお宅の庭先には元井戸という大きい井戸があり、ここから紺屋町の数軒のお宅に井戸水が引きこまれている。そこで、中町の浅見義一さん宅におじゃましていろいろとお話をうかがった。
浅見さん宅でお聞きした話を要約すると、つぎのような事である。

正式な名前については、古文書等でひろうと一応、紺屋町井戸仲間という名前が妥当と考えられる。元井戸は、小島さん宅の庭先にあり、この井戸が掘られた時期は定かではない。仲間の組織については、元井戸を各仲間の協力のもとに掘り、そこから各仲間の家に竹筒で水を引き家の要所に水を溜める。竹筒と竹筒をつなぐ方法は、松の木を輪切りにして横に穴を開けて竹筒と竹筒をつなぐ。

元井戸の管理は一応、仲間全員で行なうようであるが、元井戸主に対して仲間は水年貢として仲間組が、昔では米を、現在では米を現金に換算して納めているとのことである。

古文書に関しては明治を遡る資料は見当らないようである。しかし、昔からこの井戸仲間は組織されていた事は確実であろう。

二番目に訪れたのは北本町の内藤徳次さん宅である。このお宅は昔、桝屋さんで屋号を桝徳(桝屋徳衛)といい、新町の西側あたりに元井戸を持っておられ、桝徳さんを元井戸主として北本町を中心に四・五軒の井戸仲間がいる。井戸仲間の名前は桝屋井仲間である。

この井戸仲間も組織的には紺屋町井戸仲間と同質のものである。元井戸主の内藤さんへ井戸仲間が水年貢を納め、みんなで管理し年に数回、井戸の土さらいを行なっているようである。紺屋町井戸仲間と桝屋井戸仲間の共通点は、元井戸を中心として約五・六軒の井戸仲間が結成されていることである。この五・六軒の単位がどこからでてくるのであろうか。まず考えられる事は、ひとつの元井戸を掘ってその元井戸が給水できる範囲(生活用水)が五・六軒であろうということと、いまひとつは、五・六軒単位のまとまりが一集団のまとまりとして適合しているということである。

すこし話が変わって昔、昔の話になりますが、岡山県津山市に沼置跡という弥生時代(今から約二千年前)の農耕を主体とした村落共同体的遺跡を発掘した際に検出された住居跡が約四・五棟あり共同体としてのあり方が、四・五軒がひとつの集団であった事を如実に物語っている。

また、江戸時代の庶民の隣保組織であった五人組もまた上記の井戸仲間に影響をおよぼしているのであろうか。五人組と大溝の井戸仲間についての関連性は今後の課題にしておく。

大溝において水利を見る時に逃してならないのに、萩の露(酒造)・淡海酢(酢造)がある。双方とも清水を利用するのであるから大溝の街の下を流れている水流が酒造や酢造にいかに適合しているかが容易に理解できるとともに米の品質についても同様のことがいえる。

郭内の用水については、勝野の日吉神社の裏山の谷に二ヶ所の水源地があり、そこより各家々に竹筒の樋が配管されているようである。

このようにして大溝の治水を見てくると、街の通りに、各用水路が設備されており、各町内の中央は石垣を積んで用水路が街を囲むように配置されている。この用水施設は、用水としての役割と防火・溶雪の役割も十分にはたしているようである。

このようにして大溝の街並を見てくると、なかなか工夫がこらしてある。大溝の街づくりが本格的に開始されたのは、元和五年(一六一九)に分部光信公が伊勢(三重県)上野城から移封されて二万石で大溝に着任した時であろう。

大溝の街づくりは、湖西唯一の都市的街づくりであり、用水路・井戸仲間などの存在から治水問題に関しては常に多くの注意がはらわれている事に気がつく。

このレポートを作するにあたり、小島茂一・浅見義一・内藤徳次諸氏からの資料等の提供を受けた事に対し深く感謝します。
今後、この井戸仲間考のレポートを充実したものにするために、みなさんのご協力をお願いします。

出典:「高島の民俗」 昭和57年7月1日号

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