近江高島
大溝の水辺さんぽ

城下町勝野

大溝城下の町づくりは、新庄、今市(新旭町)南市(安曇川町)の住民を移動させて始められたと伝えられている。

近江高島駅前を左にとり、約十分の所が山の手と言われる。ここに大溝藩主の菩提寺(円光寺)、大溝藩主歴代の墓があり、円光寺に隣接する瑞雪院には藩主が葬った、幕末の北方領土探険家の近藤重蔵翁の墓所がある。大善寺、妙琳寺、勝安寺、流泉寺、中西某、福井某などは大溝城城下の町作りに伴って新庄、今市(新旭町)南市(安曇川町)若狭(福井県)からの移住によって始められたらしく、勝野には古く、分部氏の就封によって勝野六軒町、長刀町、江戸屋町、伊勢町があって、さらに、江戸時代には蝋燭町、十四軒町、職人町、西町、石垣町、紺屋町、船入町と繁華していたようである。弘治三年(一五五七)草創という徳善寺には、町で最も古いとみられる徳善寺の像(阿弥如来像)があるという。

町には、近世、三井組、島田組をしのぐ財閥(小野組)あったり、五基の曳山、名産の紅葉鮒の鮒寿司、銘酒の萩の露のことなど得意なことを見聞できる。

また、琵琶湖哀歌の舞台となった萩の浜周辺は、昔、「鬼江の浜」とも言われ、天平宝字八年(七六四)恵美押勝の乱があった所。この辺りの湖辺を南から三尾ヶ崎、香取の浦、勝野津、真長の浦と呼ばれていたらしく「万葉集」に「大御船泊ててさもらふ高島の三尾の勝野の潜し思ほゆ」「何処にか舟乗りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出来る船」などと古い地名が残されている。

また、勝野の人々の憩の場として「天頑山」がある。天頑山には、忠魂碑があり、その裏にはイヌヤチスギラン、キンポウゲ、ハッチョウトンボの発生地がある。さらに高島バイパス(一六一号線)と旧一六一号線の交差する地点(和田打川の橋のたもと)に昔の刑場跡があり、「大乗妙典六十六部日本廻国」の石碑が奉納されている。大般若経の碑は疫病者を葬った供養塔として歴史を止どめている。

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