古代の歴史

5世紀に、ここ勝野(大溝)の地から北方向に約4kmほど離れた地で継体天皇が誕生し、その関係者のものと見られる「鴨稲荷山古墳」が明治35年に大溝の約3kmほど北で発見されました。 また、平成13年には、打下集落南の山腹の工事現場から石棺が現れ、石棺内より人骨が発見されました。 この打下古墳に経つと、北近江が一望でき、陸路(くがじ)・湖路(うみじ)の要衝の地であることが一目瞭然で、ここに墓を築いたことが納得できます。

また、西暦672年には大津京が滅びることとなった壬申の乱が勃発し、ここ三尾山・乙女ヶ池周辺も激しい戦場となっています。

そして、「壬申の乱」から約100年ほどすると、「惠美押勝(藤原仲麻呂)の乱」が勝野の鬼江(現在の乙女ヶ池の辺り)で終焉をむかえています。 これら二つの乱に「藤原広嗣の乱(740)」を加えて、日本の古代の三大クーデターと呼ばれていますが、その内の二つの戦場がここ大溝周辺であったことは、この地の地形が軍事上極めて重要なものであったことがうかがえます。

また、万葉集には、勝野津(大溝湊)周辺で詠まれた歌が6首も収められています。 一つの狭いエリアで詠まれた歌が、これほど多く収められているのは、全国でもここのみと言われています。