見どころ

平成27年、「大溝の水辺景観」が国の「重要文化的景観」に選定されました。

この地域には、中・近世にさかのぼる大溝城とその城下町のたたずまいが今も残っています。ここに生きる人びとは琵琶湖と内湖の水、山麓の湧水を巧みに利用して生活や生業を行ってきました。その「大溝の水辺景観」の見どころ5つをご紹介します。

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1.信長の天下統一の足がかり 大溝城跡

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信長の命によって築かれた大溝城は、縄張り(設計)は明智光秀、琵琶湖の内湖(乙女ヶ池)を取り込んだ水城で、天守台を中心に本丸、二の丸、三の丸からなっていたと考えられています。
また、その北西に武家屋敷が配され、さらにその北の外に城下町が広がっていたようです。

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その当時の城は、防御に有利な山城が一般的でしたが、大溝城は琵琶湖岸に築かれた水城で、外敵からの防御策として、内湖を利用した濠がつくられ、石垣を築き、その上に天守が建てられました。
大溝城の石垣は、戦国期の建築技術であった「野面積み」で組まれており、傾斜が真っ直ぐであるのが特徴で、当時の技術を今に伝える貴重な歴史遺産です。江戸時代以降、建築技術が向上するに伴い、城の石垣も高さがあり勾配がついたものに変わっていきました。

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大溝城の石垣は、裏山の通称「石切り」の石が使われたと打下村(現高島市勝野)の伝承にあります。また、大工仕事については、音羽村(現高島市音羽)の大工棟梁があたったとする古文書が残っており、地元の石工や大工が築城に貢献していたよううです。

2.先進的なまちづくり まちわり水路と古式水道

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大溝城初代城主・織田信澄は天正6年(1578)、新庄(新旭町)から城を移しました。城下町を整備するにあたって、新庄や今市(新旭町)、南市(安曇川町)から商人や職人・住民・寺院などを移住させて商家(町屋)のまち並みをつくりました。その時行われた、京都のような間口が狭く奥行きの深い短冊形の区画割りはほぼ現在に引き継がれています。
元和5年(1619)、分部光信が大溝藩主として入封し、新たに武家屋敷地が造られ、町人地はさらに拡張されました。
城下の各町内全てには豊富な生水を有効に利用した水路を配し、生活と防火に備えた用排水としました。

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また飲水のための2系統の上水道(古式水道)も整えられました。日吉山の山水と湧水を地下から竹筒で運び、ところどころで分水のためにタチアガリと呼ばれる施設を作り、各家に水を引き入れました。古式水道は現在も利用されており、日吉山水道組合および日吉山水道組合による維持管理がなされ、地域共同体の結び付きを維持する機能を果たしています。
こうした城下の全てに水路を配した城下町や、各家に飲水を引き込む上水道の仕組みは全国でも珍しく、戦時だけでなく生活や防災にまで配慮した、当時としては先進的なまちづくりが行われたと言えます。

3.大溝陣屋関連唯一の遺構 総門

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元和5年(1619)、大溝藩主として入封した分部氏は、大溝城跡に陣屋を置き、その北西部に武家屋敷地を設けました。武家屋敷地の周囲は塀と堀がめぐらされ、さらにその北側に設けられた町人地ときっちりと分けられていました。
総門はその武家屋敷地の出入りに使用されていた最も重要な門(正門)です。
現在の総門は、調査時に発見された棟札から、宝暦5年(1755)に修理された時のものとみられますが、小屋束などに明らかな転用材が混在していることから、前身建物の部材が再利用されているようです。

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当時の総門は、桁行約17.8m、梁間約3.9mの長屋門で、屋根は入母屋造の桟瓦葺、中央部に扉口があったと考えられます。また、総門の左右には高い板塀がめぐらされ、大門の西側には耳門(くぐり戸)があったとされており、大溝藩武家屋敷地の正門として、壮大な建造物であったことがうかがえます。

4.古代からの歴史秘めたる乙女ヶ池

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内湖・乙女ヶ池は、かつて表の湖(琵琶湖)に対して、ウラウミ、セドウミ(セド=背戸)などと呼ばれていました。
万葉の時代は「香取の海」と呼ばれ、山の麓まで琵琶湖の入り江でした。
藤原仲麻呂(恵美押勝)が挙兵に失敗し捕らえられ斬罪されたと伝えられる「勝野の鬼江」もこの乙女ヶ池の辺りであろうとされており、戦国時代には信長の命により築かれた大溝城の外濠として利用されたりと、幾多の歴史を秘めた場所です。

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昭和30年代、淡水真珠の養殖場として利用されることとなった際に「イメージのよい名前を」ということから現在の「乙女ヶ池」に改名されました。
現在は県の園地公園となり、びわバス・こい・ふな・鱒など淡水魚の宝庫として釣り人や散策を楽しむ人に親しまれています。
朝の連続ドラマ小説「ごちそうさん」のロケ地としても使われ、主人公の二人が結婚を誓い合うシーンがまさにこの橋の上で撮影されました。今、縁結びスポットしてもひそかに話題になっています。

5.表の湖と裏の湖を使い分けた打下集落

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乙女ヶ池東側の砂州上に展開する打下地区には、織田信澄による大溝城築城時、平時は舟運や漁ろうに携わり、戦時には水軍に転換する集団が配置されました。
打下は琵琶湖と内湖に挟まれた特殊な場所にある集落で、その暮らしぶりも独特なものでした。
家の表側は道を挟んですぐ琵琶湖で、高波・浸水防止のための石垣を築き、浜にはハシイタと呼ばれる桟(かけはし)をかけ、洗い場として利用していました。

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家の裏側には内湖があり、各戸、舟を停留し、対岸の田んぼまで舟で行き来しました。内湖は農業排水や生活排水が流れ込むため、栄養が豊富で水草が育つのに適しており、刈った水草は田んぼの肥料にしていました。また、農具など汚れたものを洗う洗い場としても機能しており、食器や野菜などを洗う琵琶湖側の洗い場とうまく使い分けを行っていたようです。

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しかし高度成長期以降、生活様式が大きく変化するにつれてこうした暮らしぶりも次第に姿を消していきました。